君がいなくなって,どれほどの時が経っただろうか。雨の日,遠くで鳴り響く,救急車のサイレンの音,道路を静かに転がる,白い傘,君のハンカチに散る紅…。…僕は君を,想い出になどしない。そして僕は,ワイヤードの果てへと歩き続ける。
故人に捧げる追悼サイトや,故人へと電子メールを送るネットワークが広がりをみせている。手書きのメッセージを風船に付けて飛ばすように,死者に電子メールが送られている。インターネットがなければ喪失感を表わすことができなかったであろう人たちにとって,インターネットは現代の奇蹟になっているといえる。そしてWWWは,現実世界とあの世を結ぶ象徴としての媒体になっている。
死者からメールが届くというホラーのパラドックスは,ワイヤードこそ,いなくなった彼・彼女の存在する場所,という概念になる。死者の魂の古郷として,宇宙の果てよりも遠く広がりを持つワイヤードは,適当だ。「お空」の上の天国は,宗教観を持たないものにとっては子供だましの戯れ言にしか聞こえないが,ワイヤードの遠くに死者たちが眠るという観念は,新しい宗教たりえる。それは,なぜか?
死者を生けるものとして我が想いとするのは,「想像力」だ。死に対する慟哭と憧憬が,人の想像力を培った。そして,人の「想像力」の塊として広がり続けるワイヤードは,同じ幹を持っている。もう,居ないはずのあなた,が生きていると感じさせる空間。ワイヤードの果てには,天国も地獄もある。君,に会うためにワイヤードの果てへと歩き続ける,僕は,ずっと。
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